LALIQUEの透明感
さて、生誕150年を迎えるということで先週まで開催されていた、「ルネ・ラリック、華やぎのジュエリーから煌きのガラスへ」と題した主要コレクションを観に国立新美術館に過日行ってきた。
先月はエミール・ガレやドーム兄弟など観て来たがこのところ目の保養になる機会が多くありがたい限り。さてこのガレやドームと同様にラリックもガラスもので、この時代に高い芸術性を維持しつつも工場生産を両立していたという点では両者同じであるものの、前者の色で魅せる物の対で後者はガラスの透明性を活かした造形で魅せている。
こうした部分では今の花器「バコーントゥ」もいいが、これの絡みでは1927年「バッカスの巫女」の何ともいえぬ硝子感や、1926年電機置時計「昼と夜」などは裏から削った男性の陰刻と裏に盛り付けた陽刻の女性が面白く好きな作品の一つでもある。
またラリックを最もよく理解した顧客ともいわれた、実業家のカルースト・グルベンキアンのコレクションを集めた部屋も途中にあったがこれも圧巻。ところでこれら眺めて想ったのが、昨年のペネロペ・クルス主演の映画「ELEGY」の中での、「絵画を買う人は作品を所有していると考えるが、絵画が彼らを所有する。作品は所有者よりも長く生きる。彼らは一時期の管理者であり、自由に鑑賞し賛美するだけ。」とのセリフであった。
他の個人蔵モノにも素晴らしい物が数多あったが、当欄4/23付け「Lunariaの灯り」の末尾に「昨今の金融危機で出物もいろいろな向きからあるとも聞くが、こうした芸術品も所有者を転々とする中、今迄見てきた世に何を想うのだろうか。」と書いたのもまたフト思い出した。